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2007年11月

2007年11月28日 (水)

アラン・デュカスに会って来た!

昨夜、フードジャーナリスト会議に出席。

◆テーマはズバリ「アラン・デュカス」!

 「真の食の天才は、母なる自然です。
 私の料理の半分以上は、食材そのものの質です」

アラン・デュカスは、料理人であり、レストランのクリエイターであり、 空間デザイナーで あり、レストランに関係することすべてに責任を持つリーダーだ。

彼が率いるグループ・アランデュカスは、世界で20ヵ所以上のレストランと4つのオーベルジュを手掛けるほか、教育、コンサルティング、出版、ホテル、レストラン分野で事業展開している。


「食材をリスペクト」するスーパーシェフの生い立ちから、「料理」「レストラン」「サービス」「食育」、11/22発売(のミシュランガイド東京まで! 

フランス文化の伝承者であり、
世界最先端をいくデュカスが語ってくれた。

アラン・デュカスが提唱する「12のキーワード」を紹介します。

1.情熱・・・ただ好きになること。結果はあとからついてくるものだ。

2.喜び・・・第一の使命は、お客様に喜んでいただくこと。

3.共有・・・日々、新しい何かを身につけること。

4.ハーモニー・・・この瞬間を同じ気持ちで行動すること。

5.リーダーシップ・・・星に届くまで常にトップでいつづけること。

6.厳格・・・こつこうと与えられた仕事を繰り返しながら結果に結びつけること。

7.好奇心・・・世界の多様性に好奇心を持つこと。

8.多様性・・・文化の融合は精神により豊かな知性を与える。

9.卓越・・・緻密に、完璧を追求すること。

10.尊敬

11.勇気・・・恐れずに前進すること。

12.記憶・・・どこに向かっているかを知るためにも、どこから来たかを忘れてはならない。

この12の言葉は、世界中のアラン・デュカスグループで働く全員が片時も離さず身につけている大切なものです。フードアナリストとしても参考になる素晴らしい教えです。

世界で最も成功したシェフに数えられるアラン・デュカスの魅力と裏話は、今後の特別講座などでじっくり話しましょうか。

アラン・デュカス(1956-) Alain Ducasse

料理人、周到な企業家、さらには巧みなマネージャーという三つの要素を兼ね備えているということで、アラン・デュカスが新しい世代のシェフのモデルであり、リーダーであることに異論はないだろう。

1956年9月13日生まれ。16歳でランド県のスストンにあるパヴィヨン・ランデに見習いで入り、その後ボルドーの調理師学校で勉強を続けた。1975年コミとしてランデ県のウジェニー=レ=ヴァンにあるミシェル・ゲラールのプレ・ウジェニーに加わった。洗練された優美な料理に浸って2年間を過ごした。冬になるとパリに出て、ガストン・ルノートルでパティシエとしての技術、も学んでいる。

1977年の夏のシーズンには、ロジェ・ヴェルジュのムーラン・ド・ムージャン(コート・ダジュール)の部門シェフに就任。陽の恵みを体現した南仏の料理とともに、さらにプロ意識や古典料理の基本も吸収した。2年間アラン・シャペルの下で修業したが、シャペルは彼の精神的な師となり、また料理の根本理念を彼に授けた。「食材の選択と下ごしらえに対する厳しい目、そして先ず直感に信頼を置くこと」。1980年には総料理長に就任。
 
その後、ジュアン=レ=パンにあるホテル・ジュアンナのラ・テラスの指揮をとる。彼はここで新しい料理を案出し、開発してゆく。その才能は開花して1986年にはミシュランの二ツ星が与えられた。1987年5月、アラン・デュカスは新しい挑戦を決意した。モンテ=カルロのオテル・ド・パリのレストラン・ルイⅩⅤの建て直しであった。新しいスタイルのレストランは、3年後にミシュランの三ツ星に輝く。勢いはとどまる事を知らず、1995年にはアルプ=ド=オート=プロバンス県にオーベルジュ・ド・ムステイエを開業。
さらに1996年にはパリにレストラン・アラン・デュカスを作り、早くも1997年には新たな三ツ星を獲得している。卓越した技術と強烈なカリスマ性が、料理人としての一早い成功をもたらした。彼の料理の基盤になっているのは、卓越した味覚を駆使して選び抜かれた食材である。アラン・デュカスは料理という仕事を次のように表現している。「料理とは・・・、束の間の芸術で、日々繰り返しの作業だが、ここに利点(技術の熟達)もあり、危険(惰性的な仕事)も潜んでいる」。
 
熱意と野心に溢れた若い料理長たちが周囲に集まり、アラン・デュカスは、規律、改良、変革を旨とした一つの流派を作り上げた。そのスローガンは「知って行い、行なって行い、行なって知る」。
 
フランス料理に忠実に奉仕する一方で、企業の熱き指導者として、世界にフランス料理の威光を示し、その復興に大きく寄与している。現在、ミシュランガイドで12の星を持つ。

【写真】中央は18歳のアラン・デュカス氏

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2007年11月21日 (水)

クリストフルの思い出

「クリストフル」は、1830年、宝石商であったシャルル・クリストフルが義兄のジョゼフ・アルベール・ブイエと共に創業し、その後170年以上もの間、常に高品質のシルバーウェアを世界に紹介し続けている。その歴史ある顧客リストは類をみないほどの豪華な顔ぶれといえます。

クリストフルが誕生した背景には、フランスの衣食住に対する文化がある。見事にセッティングされたテーブルには、美しく盛り付けられた美味しい料理、楽しい会話、きれいに並んだカトラリー、まさにこれがフランス文化といっても過言ではありません。フランス国内の主たる機関はもちろんのこと、パリのジョルジュサンク等に代表される有名なホテル、一流レストランでもクリストフル製品は愛用されています。

パリのマキシムのある通り、リュー・ロワイヤルのマドレーヌに向かって右側、サン=トノーレ通りに行くちょっと手前に、クリストフルがあります。

洋銀や純銀の食器が美しく並べられていて見るものを魅了しています。フランスの上流家庭のお嬢さんがお嫁入りする時に、ここで一揃え注文するのが慣わしとか。または、親子3代がリペアをして継承して使い続ける名品とも言われています。エール・フランスのファーストクラスも、オテル・リッツも同じようにこの店に注文しているそうです。

僕は食べる事に興味があったのですが、勉強中でカトラリーの種類など詳しく知らないと言ったら、即席の勉強会宜しく店内を案内してくれて様々な物を出して解説してくれました。

ナイフ・フォーク・スプーンの他に、牡蠣を食べる時のちょっと平たい感じの小さなフォーク、エスカルゴ用の二股のフォークとピンセット、オマール海老用のペンチと先の割れて尖った細長いフォークなど、ありとあらゆる種類を出して手に持たせてくれて教えてくれました。フランス語に「?」という表情を読み取り、英語に切り替えての説明は、ホスピタリティを感じます。助かりました。

デザインにも色々あって、最も現代風(当時)にしてあるオルリーや、アメリカ風の近代的デザインとはいうものの、おとなしいアルビなどから始まって、昔のパリ風というか、20世紀初頭を思い起こさせるクリュニー、ルイ14世風のヴェルサイユ、ヴァンドーム、ルイ15世風のスパトゥールや、マルリー、ポンパドゥール、ルイ16世風のリュバン・クロワゼ、それにペルルなどを見せて教えてくれた。この時は、チンプンカンプンでよく解かっていなかったのですが、この時の経験が後にレストランでのカトラリーを見る目に繋がっているのですから経験は大切です。帝政時代を彷彿とさせるマルメゾンのデザインが好きになったものです。

「とても高価で僕には手が出ません」という僕に、お店のスタッフ(品の良い年配女性)が「丁寧に洗えば、うちでは50年保証なんですよ。機械で洗われると25年ぐらいしか保証出来ませんけどね。何しろ、1ダースのナイフ、フォークに純銀を125gも入れてあるのはクリストフルだけですから」と、ちょっと誇らしげに話してくれた笑顔が印象的です。
多少の傷など、持って来てくれればほぼ完全に元に戻して差し上げます、と言って補修技術の優れている事を付け加えてくれました。

クリストフルが日本に紹介されたのは約30年前。高級レストランやホテルなどで少しづつ浸透していったようです。現在では、一部のレストランで使われ始め、活躍されている若いシェフの中には、いつかは「クリストフル」で揃えたいという人も多いと聞きます。

料理も作る道具と食べる道具の素材が同じでは味気ないのです。
最上の料理は、白銀の輝きが美しく、口当たりも柔らかいシルバーで頂きたいものです。

MEMO
銀は使っていると細かい傷が付いていきます。この傷を気になさる方が多いですが、レストランなどで出されるシルバーのカトラリーを思い出してみて下さい。鈍く光る銀器は、なんとも重みがあります。西欧では、使い込まれ鈍く光る銀を「ムーンシャイン(月の輝き)」と呼ぶそうです。真新しいピカピカのカトラリーはどちらかというと嫌われ、お客様に出す時には使い込まれたように磨き込むのだそうです。

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2007年11月 7日 (水)

ア・ラ・カルト

Clip_image001 イギリスの作家にジェフリー・アーチャー(Jeffrey Archer)という人がいます。
ベストセラーになったものでは「ケインとアベル」「百万ドルを取り返せ!」などが挙げられますが、いくつかの短編小説集も発刊されています。

ジェフリー・アーチャーはその小説群もさることながら、その人の人生においても波乱万丈でした。元英国上院・下院議員。
また、一代限りの貴族である、ロード(lord)の称号をも持っています。
29
歳、史上最年少で下院議員になり、34歳で詐欺に遭い全財産を失い、作家に転身。何回か政界に出たり入ったりしながら59歳の時には偽証罪で投獄されると言った憂き目も経験しながら執筆活動を続けている作家です。

アーチャーの、それも短編集はユーモアに溢れており、また、イギリス・ジェントルマンの生活様式や考え方が垣間見られる部分もあり、興味深い作品も多々あります。

そこで、今日の日記の表題の「ア・ラ・カルト」、1988年に発表された「A TWIST IN THE TALE(邦題:十二の意外な結末)に収められた一編です。

将来は父と同じ職業、つまりトライアンフのタイヤを取り付ける仕事に就きたいと考える少年マーク。父であるアーサーは息子には一生そんな職業は就かせたくないと考え、個人教授さえ付けるといった熱の入れ様。しかし、マークは頑なに父と同じ職業に就くことを願う。そこでマークの母は妥協案を出してマークを承知させます。
「一年間、他の仕事で働いて気が変わらなければ父と同じ道を歩んでもよい」と。

さて、マークが就職した先はイギリスでも最高級のホテル「サヴォイ」このホテルにおいてマークは紆余曲折がありながら、その才能を見出され料理人として腕を振るうようになりました。

いづれ故郷に戻り、父と同じ職場で働くことを夢見るマークでしたが、シェフと共にフランスへ渡ります。
次の職場は「ホテル・リッツ」何年かの修行の後、再びロンドンに戻り今度は自身の店を開きます。マークの店はたちまちロンドンはおろかヨーロッパ中の評判となり、ミシュランから三つ星を与えられるまでに至ります。

三ツ星を与えられた日、テーブルに着くのはグランシェフとなったマークの両親

と、まぁ、こんなあらすじなのですが、我々のように食を学ぶ立場には非常に面白く読める一編だと思います。ホテル・レストラン小説としてもお勧めです。

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2007年11月 3日 (土)

アラン・シャペルに捧ぐ

Photo 1枚のモノクロ写真を見た。

コックコートを着たアラン・シャペルが屈みこみ、三匹の黒い犬を可愛がっている光景。
右手で子犬を抱き上げ、左手と左足で挟み込むようにしてもう一匹の子犬を抱え、さらに、無防備にさし出した彼の頬を母犬が舐めている。犬たちに語りかけているのであろう、口元は動いているように見える。コックコートの白と、愛犬たちの黒い毛並みがくっきりとしたコントラストをなしている印象的な写真だった。

「厨房のダ・ビンチ」、「フランス料理界の巨星」とも呼ばれていたアラン・シャペルは、1937年、フランスのリヨンに生まれた。母は科学技師、父はリヨン近郊のミヨネーという小さな村で<メール・シャルル>というレストランを営んでいた。父の影響から料理人を志したアラン・シャペルは、15歳で当時のリヨンの名のあるレストラン<シェ・ジュリアンヌ>にて、ジャン・ヴィニャールの元で料理人の修行をはじめた。その後、ヴィエンヌの<ラ・ピラミッド>に移り、かのフェルナン・ポワンの元で働く。※<ラ・ピラミッド>では、後にあのジョエル・ロブションが活躍する。
約5年の修行の後、3年間の兵役に服すが、除隊の後、1967年の父の突然の死によって<メール・シャルル>を継ぎ、瞬く間に一流のレストランに育て上げる。1969年にミシュランの二ツ星を獲得し、4年後には名前を<アラン・シャペル>と変え、三ツ星を獲得した。

その後、52年という生涯を閉じるまで、フランス料理界に偉大な功績を残した。
食べた人にしかわからない「消える芸術」は、多くの人を魅了してやまない。アラン・シャペルが信じていた料理への想いを具体的な形にしながら、築き上げた彼独特の料理哲学は、彼の死に際して消滅することなく多くの有志に引き継がれている。志ある後進の者たちが再現、発展させることが出来るよう自分の料理哲学を伝承する事を崇高と呼ばずしてなんと表現しよう。

アラン・シャペルの遺志を引き継ぐ愛弟子である、フィリップ・ジュスに厨房を案内してもらったことがあるが、その際に見せてもらったのがモノクロの写真であったのだ。
「ムッシュ・フィリップ、あなたの料理は一言でいうとどんな料理ですか?」と、質問してみた。
彼は迷いなく「アラン・シャペルです」と、そう答えた。その言葉に、それ以外のニュアンスが混じっていないことはすぐにわかった。彼は、アラン・シャペルの精神や料理哲学を引き継ぐことに、とてつもない誇りと畏敬の念を抱いている。逆の言い方をすれば、アラン・シャペルは死してなお、弟子の体や遺志を借りて自分の料理を究めようとしている。

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