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2007年12月

2007年12月27日 (木)

すぐれた食文化を次の世代へ

テレビ番組のアドバイザーを務めている関係で、日本人が世界の人々とどの位食生活が豊かかという観点で実態を調べているのですが、一昔前に比べると便利と引き換えに多くのモノを忘れ去ってしまっている現実が見えてきます。

食品の質はどう変化しているのか?

品種の改良や栽培技術の進歩、外国からの輸入などで旬の幅が広がっています。同じ食品であっても、野菜などは味や栄養価に差があります。たとえば夏場のホウレンソウは冬場のものに比べてビタミンCは三分の一、ベータカロテンは70%程度。味もかなり落ちます。

輸入野菜は安価ですが、ブロッコリーは国産ものに比べてビタミンCは80%程度。それでも選択肢が広がるのはいいことです。こうした食品の特徴をよく理解して賢く選択し、味や栄養価がたりない場合は他の食品を組み合わせて補う工夫が大切です。

基本的には旬の露地もののほうがハウスものより味もよく、栄養価も高いが、今は栽培技術が進歩しており、トマトや温州ミカンなどは、ハウスでも質のよいものが出来る。
冷凍ものの魚もきちんと温度管理されたものであれば、味や栄養価に大きな差はなく、食べ比べてみて初めてわかる程度だという。技術の進歩に対応するためには、消費者もそれに見合った知識が必要になる。

技術の進歩による恩恵は素直に受け止めていいと思います。夏においしい温州ミカンが食べられるなんて夢のような話。風味調味料や加工食品も忙しい時には重宝です。ただし、そうした便利な商品に振り回されてはダメ。便宜的に使用するもので、常用するものではありません。食品や健康に対する正しい知識を持ち、主体的に取捨選択して欲しいですね。

伝統的な日本料理の長所を見直し、家庭料理のレベルアップをはかるべきだと思います。グルメとは有名店を食べ歩くことだけではなく、家庭でおいしいものを食べることが大切だと考えます。
 
日本の食文化は世界に誇れる素晴らしいもの。私たちの祖先が長い年月をかけ、それこそ人体実験を重ねた末に築き上げた貴重な遺産であり、日本の風土、日本人の体質に合った食物なんです。それを次の世代に伝えていくべきです。

イタリアのあるご家庭を訪れたとき、農家の若い主婦が祖母の代からの料理ノートを使っているのを見て感動しました。祖母から母、母から娘へと味が受け継がれていく。残念ながら、日本ではそうした伝統は失われてしまいつつあります。次の世代に伝えるべき味は何なのか。
それを問い直す時期に来ているのではないでしょうか。

フードアナリストが、現代の日本の食事情に貢献できる役割は大きいと感じます。
メディアからも、その役割に大きな期待が寄せられているのです。

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2007年12月23日 (日)

小さな花の意味

いつも駅に向かう通り道に小さなイタリアンレストランがある。

味は、良くも悪くもなく普通。

凡庸な料理。

それでも一生懸命に店をきれいに清潔を保ち、店先には花などが飾られている店だった。

だったと書いたのは、この数ヶ月というもの花は枯れ、店先は荒廃した有様で見た目にも開店休業なのかと思えるほどでした。

毎日通るたび、店の様子を気にしながら歩く日々が続きました。

一向にきれいにならない店先の花壇。

・・・諦めにも似た気持ちになっていた今日、何とその店の前に小さな花が咲いていました。

何気なく通っただけなら気付きもしない程の普通の小さな花。

でも、僕にとっては可憐で喜びに満ちた美しい花だと感じました。

店の照明も心なしか明るくなった気がします。

明日のランチにでも入ってみようかな。

きっと笑顔でシェフが迎えてくれそうな、そんな気がします。

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2007年12月18日 (火)

塩梅

塩梅という言葉は、昔、塩と梅干を水に溶かしてそれを調味料にして使った事に由来します。人間の身体には0.9%の濃度で塩分が含まれていて、この値は、その日の体調や地域、季節などによって微妙に変化しますが、だいたい0.81.2%くらいの間で変化し、この値と同じ程度の塩加減に人間の舌が心地良いと感じるといわれています。つまり「塩梅」の良い加減ということです。

「塩梅のわかる料理人が優れた料理人」だと僕は思っていますし、実際料理の現場でも口が酸っぱくなるくらいに塩梅という言葉が飛び交ったりします。それは、食材の持ち味を引き出す一番の立役者が「塩梅」に他ならないからです。

塩梅は、出汁の濃さとも関連しています。
「出汁がこのくらいの濃さだから、ここはちょっと塩味を控えてみようか」というふうに、塩と出汁にはある一定の方式がありますね。このバランスがとれていると、ビシッとその料理人の味が決まります。

食べる側は、そのビシッと決まった味に酔うわけです、「いい加減だねぇ」と。逆に、耳かき一杯塩が足りないばかりに、あるいは耳かき一杯塩が多いが故に「何だこの味は!?」となってしまいます。

塩といっても本当に様々にあるので、その組み合わせで可能性はです。

かのロブションなどは、陸の動物には陸の塩を使い、海の魚貝には海の塩を使い分けているといっていました。そもそも、魚がどこの海で獲れたかで味が違うように、塩も様々です。

料理の基本である塩梅。いかに技術を磨こうとも、基本を忘れてはいい味は出せません。素材の味を調理する事でマイナスにしてしまっては意味がなくなります。本当の名人は、手を加える事でいっそう美味しくなる調理が出来るものなのです。

素材の持ち味を落とした例ですが、あわびのしゃぶしゃぶというとても贅沢な料理に出て来たスープが鰹出汁だったんですね。これではせっかくのあわびが生かされません。昆布の出汁であるべきなんです。ちゃんと理由があって、「あわびは昆布などの海藻を食べているのですから、組み合わせるなら昆布」なのです。素材に手を加えるなら組み合せと相性は大切です。

「うまいもの」に近づけるには、やはり経験と組み合せなどの知識など、頭で考えることも要求されるのです。手間隙を惜しんでは美味しい物は作れないですし、食べる側は、作り手の心意気が見える料理に出会った時に至福の喜びを感じるものだということですね。

作る人、サービスする人、食べる人が「三位一体」となって、「食べる」という行為が完成するのですから、どの分野も怠らず学ぶ事の大切さを心がけたいものです。 

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2007年12月15日 (土)

チョコレートの技術と歴史

ヨーロッパではチョコレート専門店が数多くあり、とても芸術的で美しい一口チョコなどが売られています。アメリカのハーシーなどに代表される大量生産のチョコレート(これもおいしいですが)とは対極なイメージです。

これらの美しいチョコレートを見ていると、中世から近代の長い歴史の中で発展してきたように思いますが、実はその歴史は意外と短く、せいぜいこの100年ぐらいしかありません。以前古代からのチョコレートの歴史について書きましたが、今回は近世のチョコレートの発展について、簡単にご紹介します。

南米で生まれたチョコレートは、長い間飲み物、しかも体によい嗜好品として飲まれてきました。16世紀始めにスペインにもたらされてからも、スペイン王室門外不出として、すりつぶしたカカオをお湯にとかして飲んでいたのです。

1615年ハプスブルグ家のアンナがフランスのルイ13世に嫁ぎ、チョコレート職人を連れて行ったことで、当時のフランス上流階級にもチョコレート(ショコラ)を飲む習慣が広まりました。しかしフランス革命による貴族の没落とともに、貴族社会の象徴であったチョコレートもすたれ、代わって大衆の飲み物であったコーヒーが嗜好品の中心になっていきました。

その後もチョコレートは細々と飲まれていましたが、カカオは油脂分が多いためお湯に溶けにくく、飲みにくいものでした。18世紀にオランダのバンホーテンが、カカオをココアとココアバター(油脂分)に分離し、さらにココアを粉末化することに成功しました。これがヒットして、再びチョコレートは表舞台に登場してくるのです。

さらに1847年にイギリスのフライ社が、カカオペーストに砂糖とココアバターを混ぜて型に入れて整形した固形のチョコレートをはじめて販売しました。しかし当時のチョコレートは苦すぎる欠点もありました。

カカオとミルクの相性がよいことは知られていましたが、なかなかうまく合わせることができませんでした。1876年にスイスのろうそく職人だったダニエル・ピーターが、カカオペースト,砂糖,ミルクを混ぜ合わせたものを乾燥させて粉末にし、それにココアバターを加えて成形することに成功しました。これがミルクチョコレートの始まりです。ココアバターとろうの性質が似ていたので、ろうそく職人の技術が役立ったのです。

当時のチョコレートはザラザラしてなめらかなものではなかったのですが、その後機械の発達により、粒子を細かくすりつぶし練ることで、現在のようななめらかでつやのあるチョコレートが作れるようになりました。あの美しいチョコレートも、長い間の技術開発の賜物なわけですね。

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2007年12月11日 (火)

旬のものを食べる

食べる事、噛む事で人類は脳を進化させて来ました。
生まれた赤ちゃんもこの人間の進化と同じようにしないと、脳の発達が止まってしまう恐れがあるそうです。食と脳の関係はすでに講義などでも触れていますが、では何を食べたらいいのでしょうか。

旬のものを食べる事が大切なのです。
流通や保存方法が今のように発達していなかった昔は、旬のものを食べるのが、ごく自然の事でした。旬のものは多量にあって安く、食材本来の味がするのです。

現代の人々は、旬のものをどのくらい意識して食べているでしょうか?レストランなどでも、わざわざ旬の食材を選んで料理しているなどと宣伝したりする・・・つまり、日常では旬から離れた食材を食べている家庭が多いという事ですね。

トマトはいつでもあるものだと子供たちは思っています。本当は太陽の光を浴びて育った夏が旬だというと驚かれたりもします。厳密にいうと、トマトの中でも種類によって収穫の時期は違います。フルーツトマトなどはもうすぐ時期外れとなったりします。僕はレストランのフルーツトマトの冷製スープがメニューから外れることから時期を教わりました。本当のトマトは太陽の味がします。

その太陽は、朝昇ってくる位置も沈む位置も、季節によってずいぶんと変わります。その事を見ていると地球は動いているのだなと思いますし、季節の移ろいも感じられます。地球が丸いという事を習った子供たちにも、こうした自然から実感をもって欲しいなと思います。月蝕、日蝕って何だろう?宇宙の、太陽系の小さな星に私たちが住んでいるという事を知り、そして夏が来て、秋が来る。そして冬を迎える・・・といった当たり前の自然と四季の移ろいが「旬」を作っているという事をもっと知って、大切にして欲しいと思います。

温室のトマトと旬のトマトを食べ比べてみると、その味の違いは歴然です。それを子供が感じた時に、脳の神経回路は一段と濃厚になるのだそうです。
こうしたことの中で同様に大切な事に、食器も上げられます。プラスティックに食品をのせないで、日本古来の陶器、土で作られた食器にのせて野菜は供して欲しいと脳食学の先生は語ります。土を忘れて文明を滅ぼさないため・・・というのは大袈裟ですが、壊れるものの儚さと美しさ、感触の素晴らしさを知るのも教育なのです。間違って落としたら壊れるというのも体験として必要な事なのです。

旬の食材が美味しい事を本当の意味で理解すると、脳は美味しかったという感覚を記憶します。高等な精神活動も芽生えます。人によっては料理したい、知りたい、学びたいと思うようになります。そこに想像や創造が生まれるのです。

創作の喜びは人間の前頭葉のもっとも得意とするところです。食べると言う単純な行為は、創作という深い精神活動に繋がっているのです。疎かには出来ませんね。

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